白血病

再発


振り出しに戻った治療

 3回目の治療後のマルク(骨髄検査)は、悪い結果ではなかったにも拘らず、 その後の血液検査の数値は、横ばいで血小板にいたっては、減少傾向にありました。
そのため予定していた次の治療計画は一旦中止され、4日後に採血を行い、その結果、問題がなければ、 予定通りの治療に入り、悪かった時には採血をしたその日の午後に再度マルクをするということになりました。
 血小板が増えるはずの時期に減少するのは、造血作用に何らかの問題が生じている……つまり、 再発の可能性が考えられるためでした。
 結局のところ、再度マルクをすることになり、その結果、再発していることが判明しました。
治療は振り出しに戻ってしまいました。
もう一度、寛解導入治療から始めなければなりませんでした。
 二度目の寛解導入治療は、一度目の時の薬では効かなかったという事ですから、 それより強い薬を用いて行う事になります。
何度も出来るわけではなく、体がその治療に耐えうるのは、精々三度までが限度だということでした。
 身内に白血球(HLA)の型が合う者がいなかったために、「今回は、化学治療だけでいくけれども、 もし、再発した時には骨髄バンクからの移植をするからね。」
……前々から言われていた事でした。
そのため二回目の寛解導入治療に入ると同時に骨髄バンクへ申し込むことになりました。

 化学治療は、7日間かけて投薬されました。
 治療が開始された翌日に、無菌室に入る事になりましたが、まだ空気清浄機が必要な状態には なっていなかったこともあって、トイレ、入浴の時には部屋の外に出る事が可能でした。
 治療開始からしばらくすると、腹痛が始まりました。
鎮痛剤を注射するだけでは痛みは抑えきれないので、いつものように 輸液ポンプを使って一定量を常時点滴し、それでも痛みがある時には、ナースに申し出て、その時にだけ 手動で集中的に薬を落とすという方法をとることになりました。
この薬を点滴することで、輸液ポンプを常時三つ使うことになり、 もしも倒れた時に危ないからと、部屋の外に出る事が出来なくなりました。
腸の状態を悪化させない為に食事ができなくなり、高カロリー輸液からの栄養のみになりました。
   40℃前後の熱が相変わらず続き、熱が出ては解熱剤を飲み、発汗して一旦熱は下がるものの、薬の効能が切れると、 また熱が出る。その度に解熱剤を飲むことを繰り返す日々でした。
それが原因なのかは分かりませんが、胃に痛みを感じるようになりました。
 この時の治療で一番辛かったのは、一日中感じる吐き気でした。
どうか吐きませんようにと祈るような思いで、ベッドの上でなるべく体を動かさないように じっと息を潜めるようにして過ごしていました。
 1日24時間感じる吐き気、激しい腹痛、40℃前後の発熱、相変わらずの下痢、胃の痛み ……数々の副作用に耐える日々でした。
自分でも精一杯のように思えました。これ以上のことは耐えられないと感じていました。
 Dr.は、私が受けた治療の中で最も辛いと思えるのは最初に行った治療だと考えているようですが、 データー的にはそうであっても、私自身にとっては、この時の治療の方がずっと辛いものだったのです。

 この頃の私には、ある一つの不安がありました。
過去に何度か、白血病を患った人の骨髄移植のドキュメンタリー番組をテレビで観た事がありました。 それらの記録の中では、骨髄移植の治療は、かなり辛いものであるように語られていました。
私は、化学治療だけでもこんなに辛くて、きつくて仕方ないのです。 これ以上の辛さなど私には、想像を絶することで、考えることすらできませんでした。
(これ以上のきつさに、私は耐えられるだろうか?)
他県の病院に長年勤務して、いろんな患者さんと接していたナースに、この不安をぶつけてみました。
「骨髄移植のときの治療って、副作用が凄いんでしょう? 今でさえ、精一杯なのに、私に耐えられるかなぁ。」
彼女はにこやかな笑みを浮かべて、「大丈夫ですよ。今までの治療に耐えてきたnagiさんなら、きっと耐えられます。 心配は要りませんよ。」 そう言ってくれました。
そうは言われたものの、それで不安が拭い去られたわけではありませんでした。
体験者が口を揃えたように、辛い、きついと語っているのですから……。
私を不安がらせないために言ってくれているのだろうな……そう思えてなりませんでした。

 高熱が続いたことで、次第に体の中に水分が溜まるようになりました。
そこで、それを排出するために、度々利尿剤が使われることになり、すぐにトイレが出来るようにと ベッドの真横にポータブルトイレが置かれました。
輸液ポンプが3つ付き、それによって管理されている点滴と、高カロリー輸液がぶら下がった点滴台から 胸のIVHの埋め込み口まで繋がっているカテーテルの長さが 私の動ける行動範囲でした。それはまるで犬小屋に鎖で繋がれた犬を彷彿とさせるものでした。

 投薬開始から7日後には、白血球200、ヘモグロビン4.6、血小板2万五千……白血球200の状態が 1週間続き、その後、100の状態が、2週間続きました。
なかなか、数値は上がりませんでした。
 ある日、血液検査のデーター用紙を手に持ったDr.が部屋に来て、
「増えてなかったよ。……僕が今までに診た患者さんの中で最高は、治療開始から30日目にやっと増えたって人がいたからね。」  と慰めとも励ましともとれるような言葉を掛けて下さいました。
「じゃー、もし、私が30日を過ぎて増えた時には、記録更新よね。……その時には、これから次の患者さんに話す時には、 30日を過ぎて増えた人がいたからねって、言い換えて下さいね。」 と冗談ぽく言葉を返しました。
一日一日をじっと耐えて過ごすのに精一杯で、数値のことなど細かいことを気に留めるような余裕はありませんでした。
私がそのことを気に留めたところで、自分ではどうすることも出来ないのですから……。
それからしばらくして、Dr.が嬉しそうに 「増えてたよ。」 と報告してくれました。
治療開始から30日目のことでした。


home * essay * top

下血

 白血球が増えていたと報告をもらった数日後、突然激しい腹痛に襲われ、 輸液ポンプによって管理しながら点滴していた鎮痛剤をナースに手動で数十秒間、集中的に落としてもらうことにしました。
その後も時折、同様の痛みがありました。
「これより効く痛み止めはあるにはあるんだけど……。ただ、それを使うと一日中 眠っている様な感じになってしまうんだよね。……どうする?」 と回診に来たDr.に言われました。
効く痛み止めというのには惹かれましたが、 ベッドの上でじっと横たわって眠っている自分の周りで、時間が流れていくということ……その時間の流れと共に 物事が変化して行く様子を感じ取ることもなく過ごすということは、自分だけが世の中の動きから取り残されてしまうように 思えて、受け入れることができませんでした。
「このままで、いいです。」 と返事をした後、お腹の痛みなどについて色々と聞かれるままに答えていると、不意にDr.が、 「トイレ使ったの看護婦(師)は持って行った?」 と聞いてきました。
どうしてそんなことを聞くのだろうかと不思議に思いつつ、「ううん。まだ、そこにある。」  と答えると、「中、見させてもらってもいいかな?」 と言うので、観念した様に、「うん。」 と答えて頷きました。
ここまできたら恥ずかしさも何も感じている場合ではありませんでした。
「じゃ、悪いけど中、見させてもらうよ。」 ……そう一言断ると、ポータブルトイレの蓋を開けました。
一瞬、Dr.の顔色に緊張感が走ったように見て取れました。
Dr.の目には、下血していることが明瞭だったのです。

 治療に入り、血小板が減ってくると決まって生理が始まっていたのですが、ポータブルトイレの後処理をするナースから 時々、「今、生理?」 と怪訝そうな表情で聞かれることがありました。
その時は、なぜそんな事を聞いてくるのか不思議に感じていましたが、後になって、 生理か下血かの判断がつきかねていた為なのだと分かりました。
Dr.からは常々自分の便の状態をよく見るようにと言われていたのですが、下血というものが具体的にどんなもので、 それが起きるとどんなリスクがあるのかなどの認識がなかった為に、殆んど気にかけてはいなかったのです。
医療者側にとっては、日常使われる何気ない言葉であっても、ただ病状を訴えるだけの一患者でしかない私にとっては、 下血という言葉からは何もイメージされてはきませんでした。
下血という言葉を言われて、医療者側が頭に思い描くものを感じ取れるようになったのは、入院して半年ほど経った頃のことでした。 何度か同じような経験をすることで、ようやく理解できるようになったのです。

 Dr.が部屋から出て行った後、間もなくして採血をする為の医療器具を抱えたナースが部屋に来ました。 そして、その検査の結果、すぐさま胃と大腸の内視鏡検査を受けなければならなくなりました。

 検査室へ向かう準備が整ったところで、Dr.が姿を現しました。
Dr.の問診に対して、言葉が途切れ途切れになりながら答えていると、「もっと、しっかり話しなさい!  こっちは、そういうことで判断するしかないんだから。せっかく、ここまで頑張ってきたんじゃないか!」  と唐突に強い口調で言われました。突然叱責されたことに驚き、一瞬びくつきながらも気を持ち直して、一言一言を 噛み締めるようにして話を続けました。
(……せっかく、ここまで頑張ってきたんじゃないかって、どういうことなんだろう? 今、私は危ないってこと?)
話をしながら、色々なことが心の中をめぐっていました。
  いつもなら検査室までは車椅子に乗ってナースに連れられて行くのですが、この時は、ベッドのままで、Dr.が付き添った状態で 移動することになりました。
夕方5時半頃のことでした。

 Dr.の説明では、たぶん胃の内視鏡だけで、大腸までする必要はないだろうということでしたが、 胃カメラの検査では悪いと思われるような症状は、全くみられませんでした。
検査は直に終わり、そのまま大腸の検査に移行することになりました。
これまでに何度も受けて慣れている筈の大腸の検査でしたが、この時の痛みは尋常ではありませんでした。
  あまりの痛みだった為に朦朧とする意識の中で、自分の顔の右側にあった誰かの手を、わらをもすがる思いでつかみました。 もがきながら顔を右へ左へと動かして唸っているうちに、一瞬、手に見覚えのある腕時計があった様な気がしました。 「えっ、まさか!?」 ……それを確かめようと、苦痛の為に閉じていた目を何とか見開いて見てみると、 間違いなく、私の担当医であるDr.の腕時計でした。
そのまま視線を上の方に向けると、「手だけは貸してあげるよ。」 とでもいう様に、モニターに釘付けになっている Dr.の顔がありました。他にも数名の医師がいて、皆でモニターを見ながら話し合っている様子でした。
通常内視鏡検査は、その専門の医師に委ねられ、担当医が検査についていることなどありませんでした。 苦痛に耐えるのに精一杯で医師たちの声は私の耳には入りませんでしたが、明らかに、これまでのものとは違う何かを感じさせる 雰囲気でした。
検査は、何時まで経っても終わろうとはしませんでした。
「どうして終わらないの?……いつまでやってるの?……いつもだったら、もうとっくに終わっているのに。…… お願いだから、早く終わって!」
心の中で、悲痛な声で叫んでいました。
 
 ようやく検査が終わって病棟へ上がると、エレベーターが開くなり、 「すいません。突然部屋を替わってもらって。申し訳ありません。」 とDr.が誰かに詫びを言う声が聞こえてきました。
私が戻る病室は、今まで居た無菌室ではなく、重病の患者が入る個室に変わっていました。急な事だった為に、 今し方までその部屋に居た人に、急遽部屋の移動をお願いする事になったのでした。
 時刻は、既に夜の8時半になっていました。


home * essay * top

いつまで……

 再び、最初の治療の時に過ごしていた個室へ戻って来てしまいました。
今回も、あの時と同じ様に尿道にカテーテルを入れられ、絶対安静の寝たきりの状態になってしまいました。
腕には、自動で定期的に測定される血圧測定の為のバンドが固定され、胸には心電図モニターが付けられました。
Dr.の説明では、腸の中の血管の傍に潰瘍が出来ていて、そこから出血しているということでした。
バタバタと慌しく点滴だの輸血だのが準備されていきました。
かなり出血していた為に、この時の輸血は、ダブルのパックのものでした。しかも、それだけでは終わらずに、 夜中、眠っていたところを声を掛けられ、その日の当直の医師によって、さらに追加して行われました。
翌日も輸血をし、結局、二日間に渡って輸血を受ける事になりました。

   今回の化学治療では、常時点滴していた薬以外に、朝、夕2回、抗生剤等の数々の薬を点滴していました。 多くの薬が体の中に入った為なのか、それとも多くの輸血を受けた為なのかは分かりませんが、この部屋に移ってからは、 とにかく、異常なまでに体がきつくてきつくて仕方ありませんでした。 自分がここに存在しているという、それ自体が体の芯から疼いてくる様な どうしようもないきつさを感じていました。
長く入院していると、時には他の病室から、大きな声で叫ぶお年寄りの声を聞く事がありましたが、この時の私は、 あまりの体のきつさ故に、正に叫び声を上げそうになる寸前の状態でした。
そんな事をしたら、周りの人がどれ程驚くことか、絶対にやってはいけないと懸命に自分に言い聞かせていました。
例え様のない体のきつさに、深夜、うなされる様に発作的に発した自分の声で、ハッと目を覚ました事もありました。

 これまでどんな状態になろうとも、治療の過程で 「死にたい」 などと思った事は一度もありませんでしたが、この時、なぜかふと、私の頭の中で、 地面にうつ伏せになって倒れている自分の姿を真上から見た様子がイメージされました。
なぜ、そんな映像が思い浮かんだのか、自分自身でも分かりませんでした。
どうしてだろう?なぜなんだろう?……と不思議に思いながらも、なかなか そのイメージは私の頭から離れませんでした。
そして、自分が寝ているベッドの頭上に窓があることに思いがいきました。
「窓がある。そこに窓がある。」 …… それはまるで、「そこの窓から飛び降りれば、イメージ通りになるんだよ。楽になるんだよ。」 と誰(何)かに 気がつかせてもらったかのような瞬間でした。
窓の存在に気がついてしまった事で、降って湧いたように出てきたイメージが、急に現実味を帯びて感じられました。 思わずぞっとなりながらも、目の前にある点滴台を見て、今の自分の体は尿道カテーテルを入れられ、 IVH(中心静脈カテーテル)で点滴台に繋がれているのだと分かると、これ以上考えても無駄なことだと自分に言い聞かせ、 そのイメージを払拭しました。
 死神などというものが本当に存在しているとは思いませんが、もしかしたら、あの時のあのイメージは、 「そんなにきついのなら、こうしたら楽になるんだよ。ほら、そこに窓があるだろう。そこから飛び降りたらいいんだよ。」  と私の耳元で死神が囁いていたのかも知れません。
自分の表面意識では気付かない心の奥の潜在意識で、楽になりたいと望む気持ちがあって、 そうした心の隙間に、悪い魔が入り込んで悪戯したのではないでしょうか。

 或る晩、仕事を終えた夫が、その日の様子を見る為に21時の消灯時間直前に部屋にやって来ました。
「きつい。」 「きつくて眠れない。」 と全身の力が抜けた様になって憔悴しきった様子で、言葉少なに語る私を見て、 お願いした訳でもないのに、黙って折りたたみ椅子をベッドの足元の方に持っていくと、そこに座って 私の足の裏を指で押してマッサージし始めました。
これぐらいの事しかしてあげられないから、とでも言う様に丁寧に心のこもったマッサージでした。
翌日来た時に、「昨日はよく眠れたか?」 と聞くので、「パパが足の裏をマッサージしてくれたお陰でよく眠れた。」  とこたえると 「そうか。マッサージをすると少しはいいか。」 と嬉しそうに笑って、それから毎晩消灯時間頃にやって来ては、 マッサージしてくれるようになりました。
正直なところ、それをしてもらったからといって、体のきつさが無くなる様な絶大な効果があった訳ではないのですが、 夫の一生懸命な気持ちが伝わってくる事で、心身ともに癒されていくのを穏やかに感じていました。

 1ヵ月以上も無菌室にいたうえに寝たきりの状態になった事で、ベッドの上で上半身を起こして座っているということが 出来なくなっていました。最早、上半身を支えるだけの力が私の腰にはありませんでした。
そのため、日中は電動ベッドの頭側を常に45度ぐらい傾け、マットに体を預けて支えてもらった様な状態で過ごしていました。
回診に来たDr.がそれを見ていて、部屋を立ち去り際に、「いかん。いかん。そんな事をしていたら、本当に寝たきりに なってしまう。できるだけ、体を起こしていなさい。」 と言い残して行きました。
(本当に寝たきりになってしまう?) ……言われた言葉を心の中で反芻していて、大部屋にいる寝たきりのおばあちゃん達の 姿が思い出されました。
その部屋の前を通り過ぎる時に何気なく視線を室内に向けると、いつもベッドの頭側を45度ぐらい斜めに傾けて マットに体を預け、じっとして動かず、ただ視線だけをギョロリと廊下を通って行く人に向けて目で追っていた寝たきりの おばあちゃんの姿……。
(私もこのままだとあんな風になってしまうと言うの?)
(嫌だ!!絶対にあんな風にはなりたくない!) ……強く強くそう思いました。
そういう姿になるには、まだ若過ぎると思えたからでした。
それからは、傾けられたベッドには頼らず、出来るだけ自分の力で体を起こしているように心がけるようにしました。
直に長い時間をそうしていられる筈はありませんでしたが、たとえ少しずつではあっても意識してやり続けることで、 徐々に自分の体を自分で支えることが出来る様になってきました。
 筋肉の衰えを感じることは他にもありました。
尿道カテーテルを長く入れておくと、それが感染の原因になる事があって良くないからと、 カテーテルを抜くことになったのですが、はじめのうちはポータブルトイレを使うのにもベッドから降りて立ち上がるのが精一杯で ほんの2、3歩でさえ歩くのがやっとでした。
また、ベッドから1.5mほどの場所にあった洗面台へも点滴台を杖代わりにしながらようやく歩けるといった感じで、 歯を磨くのにも洗顔をするのにも立ったままの姿勢でいる事が出来ずに、椅子に座って行なっていました。
筋肉は、使わずにいるとあっという間にその力を無くしてしまうものなのだということを実感しました。

 腸の状態を確認する為に、前回の検査の時から10日程経って大腸の内視鏡検査を受けました。
食事をしても良い状態になっていたようで、 「病院の食事を出しても良いんだけど、たぶんそんなには食べられないだろうから、ご主人に言って、自分の好きなものを 持って来てもらうようにする? …………どうする?」 とDr.に言われました。
そこで、当分の間は夫に果物入りのゼリーやプリン、アイスクリームなどを持って来てもらうようにしたのですが、 長いこと高カロリー輸液からの栄養だけで食事をしていなかった事と体が衰弱しきっていて食べるということに対する意欲を無くして いた事もあって、カップの中の1/3程の量も食べられませんでした。プリンにいたっては、甘さだけが異常に強調された 食べ物でしかなく、これまで味わってきたものとはまるで違っていました。
食べる気力は萎え、 体からは力が湧いてきませんでした。

 いつまでこんな事が続くのだろう?
 いつまで入院していたらいいのだろう?
 一体、この先どうなって行くのだろう? ……

……再発した事で 「半年」 という治療期間は変更を余儀なくされてしまいました。 そのため、これからどうなっていくのかという指針を無くしてしまって、一吹きすれば崩れ落ちてしまいそうな程に脆くて弱い心の状態 になっていました。
病気をして長く入院している者にとって、先が不透明になる事ほど辛い事はありません。
「一体、いつまで入院していたらいいんですか?」 ……聞きたくても聞けずにいる言葉が私の心の中に潜んでいました。 その言葉は、まるで重たい鉛の様に私の中で澱み続けていました。
もしも、その一言を口に出してしまったならば、その途端泣いてしまうだろう事が分かっていました。 分かっていたからこそ、言い出せずにいたのです。
心配をかけたくない為に家族にも話せず、独りで気弱な心をじっと抱き締めているしかありませんでした。
その頃の私は、心底心のケアを必要としていました。
「心のケアを受けたい。カウンセリングを受けたい。」 と痛切に思っていました。


home * essay * top

気持ちを切り替えて

 踏みしめる様にゆっくりではあっても何とか歩ける様になると、室内ではなく病棟に設置されている トイレを利用したくなりました。その場所は、部屋の傍にあるので無理な事ではないと思い、ナースにその事を言って Dr.の許可をもらいました。
 その日、早い時間に回診に来たDr.が、少し困った様に後ろ頭を掻き上げながら、「トイレまで行けたんだってね。 ……実は、悪い患者さんが一人いてね。もしかしたら、大部屋に替わってもらう事になるかも知れないんだよね。…… 今度の部屋はちょっとトイレから遠いんだけどね。まぁ、直という訳でもないと思うんだけどね。」 と 言い難そうに話してくれました。
病棟のトイレから離れた部屋にいる患者というのは、自分で歩行が可能で比較的病状の軽い人でしたから、その時の私には 少し無理があるかも知れないと思っていた様でした。
直という話ではないということでしたが、それから幾らも経たないうちにバタバタと数人のナースによって 部屋の移動が始まりました。
正午近くになって、Dr.が、「もう替わった!? 今、行ったらいなかったからびっくりしたよ。」 と慌てた様子で確認に来ました。
 懸念されていた様にトイレに行くのに点滴台を杖代わりにし、廊下の壁に設置されている手すりにもたれるようにしてじわじわと 歩かなければなりませんでした。大変ではありましたが、少しの無理をすることは、かえってそれがリハビリになって 体が鍛えられていった様に思います。

 腸の具合も落ち着いてきたところでマルクを受けました。結果は、白血球が少ないらしく、本当ならもっと作られていて良い筈なのに 思ったより作られていないとの事でした。未だ性質(たち)の悪いのが残っていて作るのを邪魔しているのか、化学治療の薬が体の中に 残っている為なのかがはっきりしないので、翌週もう一度マルクを行い、その時の骨髄の調子を診て、 それに合った治療を始めるということでした。

 部屋が替わった当初は、相変わらず体がきつく、自分の中から湧いてくる力さえないように感じていましたが、 大部屋になった事で、はじめて自分と同じ病気の人と話す機会を得ることが出来、徐々に心の落ち着きを取り戻していきました。
 (今なら聞けるかも知れない。気持ちも大分落ち着いてきたし、今なら聞いても泣き出す事はないだろう……)
……個室に移ってから、私の中に澱み続けていた聞きたくても聞けずにいたあの事を思い切って、 回診に来たDr.にぶつけてみることにしました。

「先生、私はいつまで入院していたらいいんですか?」
「僕は、はじめの時何て言った!?」…… 少しムッとした様子で逆に私に訊いてきました。
「半年って言った。」
「それは、治療が上手くいった時の場合だろう。あのまま治療が上手くいっていれば最初の予定通り 半年で退院できたかも知れないけど、……残念だけど、nagiさんの場合は途中で再発してしまったから事情が変わって、 前から言ってあった様に再発した時にはバンク(骨髄バンク)の分で移植をしなくちゃならないから、移植をすると、 あと一年は入院してなきゃいけないだろうね。」
「あと一年……」 ─── 今まで心の中に溜め込んできた哀しみが涙と共に一気に溢れるようにして出てきました。 今なら大丈夫だ、泣かずに聞けると思っていた筈なのに、周りに人がいるのも 構っていられないほど、止め処も無く涙が溢れ出て来て仕方ありませんでした。
入院して半年経った時点であと一年入院していなければいけないと告げられ、その時の私には、これから先の一年と言うのは、 まるで終わりの無い始まりのように感じられました。
「いつも言うようにめそめそしている患者で良くなった人を見た事がない。そんな事じゃ治るものも治らない。」
泣いている私を見て、Dr.が言いました。その事は、以前にもDr.から聞かされた事がありました。
「長い事医者をやって来て色んな患者さんを診て来たけど、めそめそ泣いている人やくよくよしている人で良くなった例(ためし)がない。 どちらかと言うと、先生お任せしますって、デンと構えているような人の方が治りがいい。」 と。
(めそめそ泣いてちゃ駄目だなんてそんな事を言われても、だったら気の強い人の方が良いってこと。 気の強い人でなくちゃ病気は治らないの?)
Dr.の励ましにも反抗的な気持ちになっていました。
「病気を治したいって思うのなら、検査を嫌がったりしないで、ちゃんと検査を受けて……」 
これはマルク嫌いな私に対しての言葉でした。頷きながらも涙は後から後から流れてきました。
今後の治療として、移植の話になりました。
妹、両親、長男と白血球の型(HLA)を検査した結果、私の型と適合する者はいなかったので、 骨髄バンクでドナーとなってくれる人が現れない限り、私の病気が治るということは望めないことでした。

「ドナー、…………見つかる?」
「見つかる!」
「病気、…………治る?」
「治る!」

泣きながら質問する私に、Dr.はきっぱりと答えてくれました。
その後は何を話していたのかよく覚えていないのですが、立ち去る時、私の肩に片手を置いて 黙って頷く様にすると背を向けて出て行きました。
それは、診察以外では決して患者の体に触れたりする事のないDr.の精一杯の励ましだったのだと思います。

 Dr.と今後の事について話をした日の夜、夫が面会に来ました。
「今日、先生に聞いたら……私、あと一年は入院してなきゃいけないんだって。 …… あと一年もこんなところにずっといなきゃいけないなんて ……。 パパにも子どもたちにも何にもしてあげられない。」
そう言って嘆く私に夫は、「そんな事はいいんだ。一年かかろうが、二年かかろうが、そんな事は別に構わない。治ってさえくれたら、 それでいい。」 ……しっかりした口調で言ってくれました。
夫のその言葉が、その時の私にとってどれほど心強いものであったか知れません。
夫とは当然の事ながら、血の繋がりがあるわけではありません。愛情で結ばれ、結婚という法的な手続きのもとに 成り立っている関係です。病気をして一年も二年も入院し、医療費ばかりかかって何の役にも立たないような妻など、 いつ愛想を尽かされても仕方のないことです。もし、そうなってしまったら、という不安が私の中にはありました。
元気で家に居る時には気付かなかった夫の存在の大きさを身に沁みて感じていました。
だからこそ、夫の何年かかっても治ってさえくれればそれでいい、という言葉に心から癒されました。
夫の愛情に支えられていることを実感する事で、この先どうなるのかという不安な気持ちや、いつまで……という悲観した思いに 揺るがない大らかな気持ちを取り戻せていったように思います。
思い切って今後の事をDr.に聞いて、結果的には良かったと思っています。
今なら泣かずに聞けると思っていたのに泣いてしまって、未だ私の気持ちはこんなにも不安定だったのかと、その時は聞いた事を 少しばかり後悔しましたが、今後の事を聞いて、それを受け留めることができた時から淡々とした思いで日々を過ごせていったように 思います。
 次の化学治療に入る頃には、もう私の中には 「いつまで……」 という哀しい気持ちはなくなっていました。


home * essay * top

一座違いの骨髄移植?!

 これまでは、治療が終わる度毎に外泊の許可が出て、一泊、もしくは二泊で家に帰っていたのですが、 今回は、Dr.から外泊の話が出ないので諦めていたところ、「帰れる時に帰っていないと治療に入ったら、 また1ヵ月は帰れないからね。」という事で、急遽家に帰れる事になりました。 気弱になっていた私を見て、帰した方が良いだろうと思ったのかも知れません。

   外泊をした後、早速化学治療に入りました。
今回の治療は、強い薬を使うと腸に炎症が起きて悪いからと高齢者の方に使うような弱い薬を用いて行う事になりました。 薬が弱い事と、その為に副作用は殆んど起きないだろうからと、はじめてIVHではなく、腕の静脈から点滴をする事になりました。
 ところが治療に入って間もなく、39度台の熱が出ました。
「えっ、熱が出た?!……あのねぇ、普通この薬は熱は出ないんだよ。この薬で熱が出たって患者さんは今までに一人いたけどねえ、 僕の患者さんではなかったんだけど……おばあちゃんで、その時もこの薬で熱を出すなんて 珍しい事もあるもんだって、他の先生とも話していたくらいなんだよ。本当にnagiさんの場合は他の人には起こらない 珍しい事ばっかり起こるねぇ。この薬(の副作用は)は、便秘になるよって言えば、 下痢になるし、熱は出ないよって言えば早速熱を出すし……。」
熱が出た事で、抗生剤の点滴をしなければならなくなったのですが、「君ばっかりは本当に何が起こるか分らないねぇ。」  と言うことで、今後の事も考えて、結局、 IVHをする事になりました。こんな事なら最初からIVHを入れてもらっていれば良かったと思いました。
実は、私の場合は血管が細く、硬くなっているので、そこに針を刺すのは容易いことではなく、 今回Dr.が化学治療の点滴のルートをとった時にも、 「入った筈の針が撥ね返されて来た、こんな事ははじめてだ。」 と呆れたほどでした。

 治療が中盤に入り、「先生、今度の治療は、白血球はどのくらいまで下がるんですか?」 と訊くと、 「白血球は千より下がる事はないと思うよ。今、同じ薬で80歳になるおじいちゃんに治療しているけど、80歳を過ぎている人でも なかなか千を切らないからね。」 と言う説明でした。
白血球が千以下になるとエンビラ管理といって、空気清浄機をベッドの頭側に置いて、一日中、それを付けた状態の中で過ごし、 食事は生ものは一切禁止になります。千以下になるか、ならないかで過ごし方に違いが出てくるので 患者にとっては気になるところなのです。
……その話をした翌日には、朝、採血をした検査結果のデーター用紙を手にしたDr.から、「300に減ってたよ。」  と言われてしまいました。
いつも予定外の事ばかり起こっていましたが、今回の治療では特にそれ以上の事はなく、私にとっては楽な治療だったといえます。

 回診に来たDr.が骨髄バンクの事について話し始めました。
「移植の事だけど、…… 白血球の型が合う人がいないみたいなんだよね。それで…… 一つ違いの人で探してみようかと 思っているんだよね。」
Dr.は 少し考え込むように腕組みをしながら話を続けました。「一つ違いの人だったら、何人かいるみたいなんだよね。 それで、そうなった時の移植をする病院なんだけど ………… わざわざ福岡まで行ってしなくてもいいと思うんだよね。」
一つ違いの移植の意味もよく分からず、なぜそこで福岡という地名が出てきたのかも良く分からず、(ふ〜ん) という軽い気持ちで 話を聞いていました。
 どうやら、私の骨髄移植はフルマッチの人がいない為に、骨髄バンクの一座違いの骨髄で行おうと考えている様でした。


home * essay * top

貧血

 大部屋で初めて行った化学治療が一段落し、通常であればマルク前後に外泊をして、次の治療に入るのですが、 11月末だったこともあって、年末年始を家でゆっくり過ごせるようにと マルクを行った翌日には、IVHを入れ、早速次の治療に入りました。
「強い薬を使わないとお腹の方は、いいみたいだね。」 と今回も特に強い薬で治療を行うことはしませんでした。

 大部屋で過ごした事で、化学治療を受けている他の患者さんの様子を初めて知る事ができ、「あれ?!」 と不思議に思いました。
傍で見ていると 「えっ、他の人ってこんなものなの?」 と意外に思えたからでした。
 病気になる何年も前に、ジュリア・ロバーツ主演の映画 「愛の選択」 という作品を観た事がありました。
ジュリア扮する若い女性が、白血病を患った富豪の青年が受ける外来治療の在宅看護をする仕事に就くのですが、 いざ治療が始まると副作用があまりにも酷い為に、彼女は夜、友達に電話をし、「あまりにも辛そうで見ていられない。 私にはこれ以上、この仕事を続けることはできない。」 と泣きながら訴えるシーンがありました。
私には映画の中のそのシーンが強烈に印象に残りました。
(白血病の治療の副作用っていうのは、周りの人が辛くて見ていられない程、酷いものらしい。)─── ということだけが 妙に私の中にインプットされていました。
そのため、どんな事が自分の身に起きようとも、その副作用は決して特別な事ではなく、白血病の治療を受けている人は皆、自分と同じ様な 副作用に遭っているのだとずっと思っていました。
Dr.は、その事を私から聞くと、「えぇっ!」 と呆れた様に驚きますが、本気でそう信じていたからこそ、自分に起きる事に対して、 淡々として受け止められてきたのだと思います。
もしも私があの映画を知らずに、白血病の治療の副作用は周りの人が見ていられない程辛いものらしいという情報がインプットされて いなかったならば‥‥‥そう考えると、その時には気がつかなくとも、自分にとっては何かしら意味のあるメッセージを  偶然、受け止めていたのかも知れないという気がします。 少なくとも私はあの映画を観ていたことで、(辛いのは自分だけではない。他の皆も私と同じ様にきつい思いをしているのだから、 私も頑張らなくては……) と思う事ができたのですから‥‥‥。
きっと、物事には、一見偶然とも思える事が、その人にとっては大切な必然的なメッセージであったりすることがあるのでしょう。

 治療開始から19日目、土曜日のことでした。
この週に入ってから白血球は100まで下がっていました。
 朝起きてトイレに行った時、洗面所で手を洗っていて、急に息がし辛い様な気がしました。
白血球が1000以下に下がっていた私は、細菌やウイルスに感染しない為に病室を出る時には必ずマスクを付けなければなりませんでした。 正面の鏡に映っているマスクをした自分の顔を見つめながら、( このマスクが邪魔になって息がし辛いのだろうか? )  …… と、おかしいなと思いながらも、敢えてそれ以上のことは気にしないことにして病室へ戻りました。
その後、朝食を取り、歯を磨いたりする間、特に変わった症状は感じられませんでした。
朝の掃除や検査などが始まると病棟は慌しくなってくるので、その前にもう一度トイレに行って、昼食までの時間をゆっくり過ごそうと 思い、病室を出て2mほど歩いた時でした。突然、眩暈を感じました。
(なんか、やばい!)─── 慌てて踵を返し、足早にベッドへ戻りました。
何かが変だと感じながらも、単なる気のせいなのかも知れないという思いもあり、そのまま様子をみることにしました。
しばらく横になっていましたが、そろそろ落ち着いたと思えたところで、もう大丈夫だろうと立ち上がり、着ていた病衣の乱れを整えて、 一歩足を踏み出しました。その途端、クラ〜っと頭の中が揺れて、それ以上歩くことができず、再びなだれ込む様にして ベッドに横になりました。
この時、既に自分で歩くことが出来ない状態になっていました。
その日部屋の担当になっていたナースに事情を話すと部屋で用が足せるように配慮してくれました。
寝たままの状態でするより、ポータブルトイレを使う方がいいからとお願いして用意してもらったのですが、起き上がろうとして 頭を持ち上げた途端、ぐら〜っと頭の中全体が大きく回るような強い眩暈を感じました。「だめ〜っ。」 思わず声を出し、バタンと 倒れこむ様に頭を枕の上に落としました。
最早トイレどころではありませんでした。立ち上がるどころか、頭を持ち上げる事すら出来ない状態になっていました。
………… (ヘモグロビンが少なくなっているのかなぁ? だとすると、赤血球を輸血してもらえたら楽になるんだろうなぁ。) …………ベッドの上で横になりながら、ぼんやりとそんな事を考えていました。
 Dr.は土日はお昼までに一通り患者を診察すると午後を過ぎれば帰宅してしまいます。
輸血をするのに、私の場合は少し血液が特殊なので、もし県内に同じ血液がない場合には、他の県から血液を運んでくる事になります。 そのため、輸血が決まってから実際にそれが行えるまでには、他の患者さんの場合より時間がかかってしまいます。
もし、今日急に輸血する事になり、血液を運んでもらわないといけないとなると、Dr.は夕方過ぎた頃に再びその事だけの為に出て来なければ ならなくなります。その事を考えると容易く輸血のことを言い出せそうもありませんでした。
 Dr.が回診に来たので、「 …… 眩暈がして、自分一人で歩いてトイレまで行けなくなりました。」 そう言うと、 「看護婦(師)に車椅子で連れて行ってもらえばいいよ。」 と、それ以上その病状について問題にする事はありませんでした。
 
 結局朝から起き上がれないままになっていたので、午後を過ぎて、担当のナースにトイレの介助をお願いすることにしました。
先ずは体を起こさなければなりませんでした。意を決して頭を持ち上げました。ぐらっ〜と頭の中で大きく弧を描くように重たく 揺れました。「待って!」 ナースにそう言うと、その眩暈が治まるまで座ったままの状態でじっと様子をみていました。 そしてようやく落ち着いたと思えたところで床に足を下ろしました。独りでは立ち上がることは出来ないので ナースに介助をしてもらい支えてもらった状態で直傍に置いてあったポータブルトイレに座らせてもらいました。
ナースは直脇に立ち見守っていました。トイレットペーパーもナースが切ってくれたものを手渡ししてもらって使い、自分では何もできない 状態になっていました。
後はただひたすら横になっているだけでした。
食事も取れず薬も飲めないままに消灯の時間が来てしまいました。
準夜勤のナースが来て、「寝る前にトイレ行っておく?」 と言われ、介助をお願いすることにしました。
お昼の時と同じ様な状態でした。激しい眩暈が落ち着くまでは頭を動かすことが出来ずに、独りでは立ち上がることも出来ない 状態でした。
 少ししてから、「nagiさん今、生理?」 とナースが聞いてきました。そして、「ちょっと、血圧を計っておきましょうね」  と血圧計を持って来ました。血圧がどれほどの数値を表していたのかわかりませんが、その後、「採血させてね。」  と採血することになりました。 ひどい貧血状態だった為に5回、6回と針を刺しても全く血液は採れませんでした。ナース交代で他のナースが来て 血管を出す為に指でパシパシと私の右腕を叩いていたところにDr.が現れました。
私は、Dr.の顔を見て、これで助かる、楽になれると思ったのですが、それも束の間、Dr.が開口一番に私に言った言葉を聞いて、 ほっと安堵した気持ちも一瞬にして萎えてしまいました。
「君の言う事は信用できない。」
「もう、君の言う事は信用しない。」
唐突に患者である私にそう言うのです。
突然の事で何のことだか分からず、どうして苦しんでいる私に向かってそんな事を言うのかも分かりませんでした。
「もう、君のいう事は信用しない。生理だ、生理だ、って言って、生理なんかじゃなかったじゃないか。下血してたんだろう。」
─── (違う。そんなことない。)
「生理と下血の区別もつかないのかい。」
「もう、君のいう事は信用しない。」
生理の時の出血と下血の時の出血とでは明らかに場所が違います。それは、女性であれば説明しなくても場所が違うと言えば、その一言で 解ることなのですが、男性であるDr.には、説明のしようがありません。異性だから恥ずかしくて口に出来ないこともあります。
どうしたら解ってもらえるだろうかと、精一杯の思いで、「生理の時の出血って、膣からでしょう?」 と言いました。
膣からと腸からの出血では明らかに拭く位置が違うので、区別がつかないということはあり得ないことでした。そのことを知ってもらいたかったのですが、それ以上の言葉の説明が出来ませんでした。
Dr.は、意外な私の言葉に「う、うん。……」 と戸惑ったように返事をし、黙ってしまいました。
人から 「君は信用できない。」 などということを言われたことは初めてでした。
哀しさと信じてもらえなかった悔しさで、涙が出てきてしまいました。仰向けに寝て天井をじっと見つめたまま、もう他には 何も言うことは出来ませんでした。涙が目尻から耳元にツゥーと流れていきました。
私の涙に気付いたDr.は、それ以上私を責める様な事は言いませんでした。
「前にも言ったと思うけど、君の場合は血液がちょっと人と違うから、ここに血液が無い場合は他のところから持って来てもらう事になって 、ここに血液が届くまでに何人もの人を起こさなくちゃいけなくなるだろう。」
─── (何人もの人を起こす事になるって、まだ、9時半じゃない。こんな時間に寝てる大人って、子どもと一緒に寝てる 先生ぐらいのものじゃない。他の人はまだ、起きてるってば。)
(だから、私は昼間、輸血をしてもらいたくって、歩いてトイレまで行けなくなりましたって、ちゃんと貧血状態である事を 言っていたのに……。何もしなかったのは先生じゃない。)
お説教を受けながら、心の中では納得いきませんでした。
採血が終わり、一旦ナースステーションに戻って行ったDr.でしたが、暫くすると血小板を持って部屋に来ました。
「血小板が五千しかなかったからね。先に血小板を輸血するよ。」
そして、血小板の輸血が終わると、赤血球を持って来て、「これで、ずいぶん楽になると思うよ。」  「ご主人には連絡しないからね。連絡するとまた、心配するからね。」 そう言うと、やれやれといった様に後ろ頭を掻き上げながら、 気だるそうに部屋を出て行きました。

 一夜明けて、前日私の部屋の担当だったナースが引き続き今日も担当になっていました。
彼女は私が最も信頼を寄せているナースでした。
白血球を増やす注射を上腕部に打ってもらいながら、
「昨日、先生に君の言うことは信用できないって、言われちゃった。」 と何気なく言うと、
「え!? どういうことですか?」 と少し驚いた様に訊いてきました。
そこで、昨晩のことを掻い摘んで説明すると、
「いいえ、あれは生理です。間違いありません。私がちゃんと見てました!」
(え?!‥‥‥‥‥??? 見・て・た!! ‥‥‥ やっぱり見られてたんだ。そうよね。あの時、傍にいたんだもの。)
「私が、あれは間違いなく生理でしたって、先生に言って上げますよ。」 と言ってくれました。
見られていたという事実とその為に確かに生理だったと証明してもらえることになったことで、少々複雑な心境でした。

    


home * essay * top

末梢血幹細胞採取

 貧血を起こした日から四日後、二日間かけて自家末梢血幹細胞移植のための採血をしました。
腕の静脈から一日三時間かけての採血でした。
右腕と左腕の静脈に其々針を刺して、その二箇所を管で繋ぎ、 右腕から採血した血液は、途中連続血液成分採取装置を通して必要な成分である造血幹細胞だけを採取すると、 残りの血液は左の腕に刺している針から輸血をする時と同じ方法で体に戻されていきました。
たった3時間の事なのですが、身動きの出来ない3時間というのは、体にとってはかなりな負担でした。
私の場合、考えられていた移植は、骨髄バンクによる非血縁者間による骨髄移植でしたが、骨髄バンクに申し込みをしてから 4ヵ月経ったこの時点でもドナーとなってくれる人は未だ確定されてはいませんでした。
そこで、考えられる方法は全てやっておこうというDr.の計らいで、もしもの時にと自家末梢血幹細胞移植のための造血幹細胞を 採取しておくことになったのでした。採取したものは、2年間冷凍保存が可能だということでした。
私の白血病のタイプは骨髄に問題があるため、造血幹細胞が採れるかどうかは何ともいえないということでしたので、 採取が終わった後に、Dr.の 「採れてたよ。」 という言葉を聞いた時にはホッとしました。 最悪の場合の手段として、少なくとも一つの方法が確保されたことになりました。


 「そんなものを見ていたら、お腹が空くんじゃない?」
じっとお料理の本を見ていた私に回診に来たDr.が言いました。
この時、またいつもの様に絶食になっていました。
絶食になると食べ物を見るのも辛い状態になると思うかも知れませんが、実際には、逆に食べ物を口にしていた時以上に お料理に関心が向く様になっていました。関心と言うよりも、とにかく視覚に入れたくて仕方がないという様な感じでした。
お料理の本をじっと眺めて味わい、テレビ番組のチェックでは、お料理番組の放送は欠かせませんでした。毎日お料理番組を むさぼるようにして見ていました。食欲を満たすのは舌と胃だけによるものではなく、 視覚を通じて脳が刺激を受けることによって満たされる部分があるのかも知れません。
 大腸の内視鏡検査を受けて病状が良くなっていることが確認されると、その日の午後から食事が開始されることになりました。 開始になったばかりの私の食事メニューはおかゆでした。
奇しくもこの日はクリスマスでした。病院で迎えたケーキのないクリスマスはどことなく侘しく、物足りなく感じました。
来年のクリスマスこそは、なんとしても家で、家族でケーキを囲みながら迎えたいと願いました。
 その日、消灯前、病棟の灯りが全て消されました。
遠くの方で鐘の音が優しく響いているのが聞こえてきました。
病棟にもサンタクロースが現れたのでした。
サンタクロースの衣装を身に付けた内科医とトナカイの着ぐるみを着た内科医と、なぜそこにいるのかは不思議でしたが牛の着ぐるみを 着た内科医が、キャンドルを手に持ち天使に扮した数人のナースたちに囲まれて、各部屋を巡回していたのです。
小さな可愛らしい手作りの紙の袋の中に一粒チョコとキャンディーが入ったプレゼントを一人一人の患者に手渡してくれました。
着ぐるみを着た内科医の方々には恐縮でしたが、思いがけないサプライズに病室の中は和やかな雰囲気に包まれました。

 いよいよ年末になって、6泊7日で家に外泊できる事になりました。
これほど長い期間、家に帰ることは入院以来初めての事でした。
 


home * essay * top

外泊

 6泊7日の外泊は、2泊3日のいつもの外泊と違って、ゆとりを感じながらのんびりと過ごす事が出来ました。
 部屋の中で一人で過ごしている時、和室のテレビの傍に一冊の本が無造作に置かれているのを見つけました。
夫はリビングで過ごすより、和室で過ごすことの方を好んでいました。
(パパは、一体どんな本を読んでいるんだろう? ) …… 何気なく手に取って中を見てみました。
それは、骨髄移植をしたあるタレントの闘病記でした。
どんなことが書かれているのだろうとドキドキしながら本を開き、目次を見ながらザァ〜ッと自分の知りたいと思うところを 抜粋して読んでみました。
(やっぱり、移植って大変なことなんだ。)─── そう思って愕然としました。
移植についてもっと知りたくなり、インターネットで調べることにしました。
 元あった所とは違って、私の傍に置かれていた本を見た夫が私に訊きました。
「おまえ、これ読んだのか? 」 
「うん。」…… インターネットで情報を色々と得た私は何となく気持ちが重たくなっていました。
「パパ、…… 移植って……命がけなんだね。」 思わず出た言葉でした。
「そうだよ。」 夫は冷静に答えました。
既にインターネットの白血病サイトなどで骨髄移植を体験した人たちのホームページを見ていた夫は、移植の大変さを理解して いたようでした。
「あんまり、こういうのは見ない方がいいぞ。」 私の気持ちを察した夫が言いました。
「うん。」 ─── 素直に返事をしながらも、見ない方がいいのか、知っておいた方がいいのか、私自身にも分かりませんでした。 ただ、本を読んだ衝撃から、もっと本当のことが知りたいと思う欲求が強くなっていました。
入院する事になったのも、治療に入ったのも、何もかもが突然のことだった為に、外部から自分の病気のことについて 情報を得ることなどありませんでした。
ゆとりを持てた外泊は、私に白血病について調べる時間を与えてくれたようなものでした。


 「人の幸せって言うのは、何なんだろうね。」
食卓の向かい側に座っていた夫がしみじみとしたように言いました。
外泊で帰って来て、同じ空間で過ごしている時に時々夫が口にする言葉でした。
「俺の周りにいる人たちの中にはな。離婚している人もいれば、不倫している人もいる。家庭が不仲でうまくいっていない人もいる。 ………そういう人の話を聞いているとな、人の幸せっていうのは、一体何なんだろうな、と思うんだよな。」
我が家の場合を考えると、家庭の中に問題はなく、夫婦仲は至ってうまくいっています。 ただし、妻は病気で、この先どうなるのかわからず、長い入院生活を送っているといった状態です。 それに比べ、体は健康でありながらも、家庭の中に何かしら問題を抱えている人がいます。 そういう人の話を聞くにつけ、─── 本当の人の幸せっていうのは一体何なんだろう………と夫はつくづく思っていたようでした。
もしかしたら、恵まれ過ぎているが為に、却って大事なものを見失うということがあるのかも知れません。
 入院して治療に入ったばかりの頃、夫が私に一通の手紙を書いてくれました。
私が入院する前の夫は仕事人間で休みで家にいる時には、一人で過ごすことを好んでいました。平日、朝早くから夜は遅くまで仕事を していたので、一人の空間で煩わしさを感じずにのんびりと過ごしていたかったのだと思います。 私と子どもたちはよく冗談交じりに  「パパは何処? また、部屋に引きこもっているの? 我が家は子どもじゃなく、パパが引き籠っているんだから。」 と 言ったものでした。
手紙を読んで、そんな夫の素直な気持ちを知りました。
そこに書かれていた内容は、仕事人間だった自分のことを詫びたものでした。自分が仕事人間で家庭を顧みなかったばっかりに 妻の病気にも気付いてあげることが出来なくて本当に申し訳なかった。少しでも妻や子どもたちにいい暮らしをさせたいと 思って今まで一生懸命に仕事をしてきた。それがこんなことになってしまって…… と悔やまれる気持ちが述べられていました。
好きで仕事ばかりしていると思っていた私は、夫の本心を知って正直驚きました。全てが家族の為を思えばこその事だったのですから。
もしも私が病気をしなかったならば、夫の心のうちを知る事はなかったかも知れません。
病気をしたことは、私に本当に大切なものは何であるのかを教えてくれる事になりました。
夫にしても同じ事がいえるでしょう。妻は丈夫で必ず自分の傍に居るものだと思っていたのではないでしょうか? それが、 もしかしたら、手の届かないところへ逝ってしまうかも知れないという不安な状態に置かれることになったのです。 夫にしても本当に大切なものは何であるのかを身に沁みて感じていたようでした。  


home * essay * top

虫垂炎

 年末年始を家で過ごし、病院へ戻ってきた私を待っていたのは大っ嫌いなマルクでした。
夫はよく、治療をしている私に 「俺が代わって上げられたらなぁ。体も丈夫だし、俺の方が耐えられるだろうに。」 と 言っていました。
どんなに治療が辛くても、私の代わりに夫が病気になってくれれば……と願ったことはありませんでした。むしろ、 夫でなくて良かったと思っています。ただ、このマルクに関してだけは……この時だけは……言葉にこそしませんでしたが、 代われるものならば、代わってもらいたいと思うことが度々でした。

 治療の方は、移植前にあまり強い薬で治療をしない方が、移植をした時の体にはいいことが分かっているから……と、 二回目の寛解導入治療後に行った治療と同じもので弱い薬で行う事になりました。
そのため、副作用は特に際立ったこともなく、そのまま順調に治療を終えることができそうな気配だったのですが……。
エンビラ管理になっていた或る晩、夜中にかなり強い腹痛を感じました。鎮痛剤の注射を打ってもらいましたが、 しばらくするとまた痛くなってきました。腹痛に加えて、嘔吐も何度かありました。
腹痛や嘔吐は化学治療の副作用では、いつもの事だったので、特に不安に感じることもなく、淡々とした思いで受け止めていたのですが、 今回の腹痛の場合、鎮痛剤の薬は次の投薬まで4時間を空けないといけないということでしたが、時間が経過するに連れ、 次第にその4時間が待ちきれないようになってきていました。
早朝、6時に注射をしてもらったのですが、9時になる頃には痛みが強くなって来て、我慢出来ない状態でした。 時計と睨めっこをするように、後何十分……と4時間後の時間をひたすら待っている様な感じでした。
10時まで後15分というところでDr.が回診に来てくれました。
今朝の採血の結果の用紙を手に持ち、「(白血球が)増えてたよ。」 とエンビラ管理にしなくてもいい事を教えてくれました。
お腹が痛いことを報告し、触診をして痛みの原因を探ってもらっていた時でした。Dr.の手が右脇腹を押さえ様としたその瞬間、 思わずDr.の手を押し退けてしまいました。
「え〜っ! ちょっと待ってよ。そんなに痛いなんて、おかしいよ! 」
「だって、痛いんだもん。」
「痛み止めも一度注射したら、4時間は確実に持つ筈だよ。それが4時間持たないなんて、その痛みは普通じゃないよ。」
「盲腸かも知れないな! ………… もし、盲腸なら、今だったら手術できる!」
と、急遽CTを撮る事になりました。
CTを撮る為に検査室へ向かうエレベーターの中で、もしも盲腸だとしたら、今日の午後には手術する事になると告げられました。 その時、大腸の切除の話が出ました。治療に入るといつも炎症を起こしている大腸を移植前に切除した方がいいのではないかという話が 年が明けてから出ていました。化学治療の時でさえ、これだけ炎症を起こしているのですから、移植になった時、その炎症がもとで 命を落とすことにもなり兼ねないからでした。命を落とすくらいなら、その原因となる大腸を予め切除して 移植に臨んだ方がいいのではないかという見解がある様でした。
「大腸を切除するとどうなるんですか?」
「う〜ん、ずっと下痢になるだろうね。」
── ( ずっと……下痢 ……嘘でしょう?!)
入院して以来、半年間ずっと下痢の状態が続いていたことで憂鬱な思いをしていたというのに、 それが一生続くことになるかも知れないと言われ、副作用で腸に炎症が起きたばっかりに……と、 この時は少し、しょげた気持ちになりました。
 CTを撮り終え、病棟へ向かうエレベーターの中で、Dr.は、今撮ったばかりの写真を手にして、
「盲腸だね。間違いないよ。普通、盲腸は隠れていて見えないんだよ。だから、めくら(盲)と書いて盲腸って言うんだよ。それが、 はっきり、見えてるからね。」
「大腸も一緒に切るんですか?」
「いいや、今日は盲腸だけだよ。」

 病棟へ戻るとDr.は、外科のDr.や私の夫と連絡を取ったりと慌しくしていたようでした。私の周りでは、 手術の準備が着々と進められていました。
(本当のところはわかりませんが)この病院では、しっかり麻酔をして、しっかり切るというのが外科の方針だということで、 盲腸の手術も全身麻酔で行っていました。麻酔の注射が苦手な私にとっては、全身麻酔の危険性を考えるより、恐怖心を持たなくて 手術に臨める事で、その方が有難く思えました。
 午後から、いよいよ手術室へ向かう為に手術着に着替え、ストレッチャーに乗せられました。被っていたバンダナを外し、 ブルーの手術用のキャップを被らされ、主治医と病棟のナースに付き添われて手術室へ向かいました。
─── この時には気付かなかったのですが、後に、その時の私のようにストレッチャーに乗せられて手術室へ向かう男性を見かけた時、 私の視線はその男性の頭部に釘付けになりました。ブルーのヘヤーキャップは色は付いているものの、その素材は透けて中の頭部は 丸見えの状態だったからです。手術室へ向かった時の私の頭部は治療の副作用で髪は全く生えておらず、ツルツルの坊主状態でした。 キャップを被った気になって中は見えていないと思っていたのに事実はそうではなかったことを知って愕然としました。─── 
 手術室では、手馴れたように段取り良く進められていきました。
「では、10まで数を数えて下さいね。」 とナースに言われ、数え始めたのですが、「1、2、3、……」  まで数えたところまでしか記憶にはありません。
次に目覚めた時には、病棟の自分のベッドの上でした。

 意識が少しずつ戻り始めて来ました。周りの事に意識が向くより前にのどに異常な違和感を覚えました。
喉の奥に割り箸か何か、棒状のものがクロスして突き刺さっている様に感じました。
( 何? これは何なの? どうして割り箸が喉の奥に突き刺さっているの!? ……どうして? ) 
( ……苦しい! 誰か……この喉の奥のものを退けて! )
それは、異常な違和感でした。
 意識が戻りかけては、また眠りに入るといった様な状態が何度か繰り返された後、 段々と意識が戻った状態が長くなって来ました。すると、外科のDr.が来て、「ちょっと痛いよ。」  と酸素状態を検査する為に大腿部の付け根の動脈から採血しました。
その日は一晩中意識が戻ったり、眠ったりといった状態を繰り返していました。夜中巡回に来たナースが体温計を脇に挿しいれ 、「8度5分か、なかなか下がらないなぁ。」 と言っていたのを記憶しています。

 朝になり、意識もはっきりとして来ました。
IVHが入り、点滴されている状態でいる筈なのに全く尿意を感じないことを不思議に思っていたのですが、意識が戻ったところで 尿道カテーテルが入れられている事に気付きました。口に覆いかぶさっている酸素マスクが苦しくてとにかく、このマスクと鼻の穴に 入れられている管を外してもらいたくて仕方ありませんでした。
外科のDr.が来て、外してもらえる事になった時には心底ほっとしました。
 同じ病室の患者仲間の人が、「昨日は先生が、大変だったんだよ。外科の先生にお礼を言ったり、輸血したりして、 何度も様子を見に来ていたんだよ。どれだけ先生が心配していたことか。」 とDr.の様子を教えてくれたのですが、当の本人は、 全く意識のない時の事でしたので、輸血されたことも言われて初めて知った様な状態で、─── そんな事が本当にあったの?───  と狐につままれたような感じでした。

 手術後、数日間は本当に大変な思いをしました。
腸の回復の為には出来るだけ動いた方がいいからと、手術をした翌日には尿道カテーテルを外し、トイレまで自分で歩いて行かなけば なりませんでした。たとえ傷口は僅かなものであっても、体を起こそうとすると予想以上にお腹に力が入り、傷口が痛くて痛くて どうしようもありませんでした。その傷口の痛みに耐えながら起き上がることはかなり辛いものでした。 ましてや、高カロリー輸液の栄養剤を点滴していたので、2時間〜2時間半おきには尿意を感じてしまいます。 その度毎にその痛みに耐えなければなりませんでした。
 喉の炎症の為に生じた咳にも泣かされる羽目になりました。
一度咳き込むと、その咳はなかなか止まりませんでした。咳き込み始めるとキャンディーを口に入れて舐めたり、お茶をゆっくりと 口に含ませて喉に落としたりしていました。そうでもしなければ、咳き込む度にお腹に力が入り、傷口が痛んで どうしようもなかったからです。
Dr.が言うには、「手術の時に鼻から入れた柔らかいチューブで喉に傷がついて、そこから炎症が起きて手術後に咳が出る事が あるんだよね。」 ということでしたが、柔らかいチューブなどとはとんでもないことで、入れられた方にしてみれば、 棒を突き刺された様に硬いものに感じていました。

 この辛さも決して長くは続かない。今までもそうだったのだから。
どんなに辛いと思える事でも、いつか楽になる日はきっと 来るのだから……。
この一時を耐えなければ……と、自分に言い聞かせていました。


home * essay * top

退院

 白血病の治療は一先ず置いて、術後の経過観察に重点が置かれている様でした。
手術から13日目にはIVHを外し、約1ヵ月半振りに外泊できる事になりました。
 その後、いつもの様にマルク、大腸の内視鏡検査を受けました。
 移植に関しては、ドナーの方とのコンタクトを取っている最中なのか、「4月に移植をする事になるかも知れない。」  ということでしたが、それ以上の具体的なことは伝わっては来ませんでした。
 或る日、回診の時にDr.から、移植をする前に細菌感染を起こさないために歯の治療をしておかなければいけないと言われました。 もしも、虫歯があって治療が間に合わない様だったり、歯槽膿漏などの悪い歯は抜歯する事になると言うことでした。
悪い歯は抜歯と聞き、思わず、「ええっ!」 と驚いてしまいました。
「どうして、皆そう驚くのかなぁ?!歯の為に命を落とすことを考えれば歯の1本や2本なくなることぐらい、 どうって事ないんじゃないのかなぁ。」 ─── 確かにその通りなのですが、その時のDr.の反応に、今一つ腑に落ちないものを感じました。
驚いてしまった私が悪かったのか、それとも患者の反応に対して少し剥れた様に気分を害してしまったDr.が間違っているのか……。 私の中に何かが引っ掛かって、納得いかないようなわだかまりを感じました。このまま気にせずに流してもいいことなのかも知れませんが、 この時、少しこの問題について考えてみようと思いました。
 ─── ( 人は誰しも自分の歯に関して多少なりとも不安に感じているものなのではないのか? 自分は絶対大丈夫だと 自信を持てる人が果たしてどれくらいいるのだろうか? …… とすると、虫歯があったら抜歯する事になると言われて 驚かない人はいないのではないのか? Dr.に言われて、自分の歯が1,2本抜けてしまっている口腔内のイメージが私の脳裏に 浮かんだ様に、誰でもそうなのではないだろうか…………。)
 移植に長いこと関わって来ているDr.にとっては、それは当然のことで、全て理解していることなのでしょうが、 患者にとっては初めて知る内容なのですから、悪い歯は抜くと言われて、先ず驚くのが 普通なのではないでしょうか? 
「どうして皆……。」 と言われても、私にとっては、その時初めて聞いた話だったのです。 Dr.は患者に説明する度毎に同じ反応を受けることで ─またか─ という多少うんざりする思いがあったのでしょう。
 「 歯を抜くと言われて、ショックを受けるかも知れないけど、口腔内の細菌感染から命を落とすことになるかも知れない事を 考えれば、1本や2本歯を抜くことはし方がない事だよ。」 ─── と、そんな風に一旦患者の気持ちを受け止めてくれたら 良かったのに…… と思いました。
 実は、この時Dr.は体調を崩していたのです。もしも、体調が良かったならば、患者の気持ちを受け留める余裕を 持てていたのかも知れません。
そう考えると、つくづく医師と言うのは心身ともに健康でなければならないものだなぁ……と思いました。

 歯の治療をするのに、移植を行う病院の口腔歯科で診てもらった方が良いだろうという事になり、先ず、その病院の血液内科の 外来で診察を受けることになりました。
入院中の他病院への外来受診の場合、病院の車は送りはするけれども迎えには来ないという事でしたので、自家用車で夫に付き添って もらって行くことにしました。

 受付を済ませ、病院の専門科の待合室でようやく名前を呼ばれて診察室に入ろうとドアの前に立つと、私の真後ろにぴったり とくっつくようにして夫が立っていました。
「何? もしかして、私について一緒に中に入るつもり?」
「うん。」 と当然の様に夫は頷きました。
( まさか、小さな子どもじゃあるまいし……。) と成人しているのに診察室に保護者同伴の様な形で入室する事に少し 抵抗がありましたが、( この際まぁ、仕方がないか……。) と、一緒に入室し、診察を見守ってもらう事にしました。
 これまでの治療経過を訊ねられるままに答え、移植の話になったところで、それまでずっと私の後ろで黙っていた夫が口を挿みました。
「1座違いの移植は、この県では初めてだということですが、大丈夫なんでしょうか?」
( えっ! 初めて……!)─── 初耳でした。
「大丈夫だと思いますよ。まぁ、心配であれば別に此処でなくても他の病院に行かれても構わないですよ。…… そうですね。…… 1座違いの移植を行ったことのある病院は、九州では福岡と……あとは長崎でしょうか。でも、そこまでしなくても ここでも充分だと思いますよ。」
 医師の説明を聞いて、かつて主治医が私の移植の件について説明をした時のことを思い出しました。
「(フルマッチのドナーが見つからない為に)1座違いのドナーの骨髄で移植をしようかと思っているんだよね。」……と話を切り出し、 「 …… わざわざ、福岡まで行ってしなくてもいいと思うんだよね。」 と言ったのです。
あの時は、なぜそこで突然「福岡」という地名が出て来るのかが解らなくて不思議に感じていたのですが、この時の医師の説明で ようやく、その訳が解りました。
 夫は骨髄バンクから送られてくる資料などに目を通していて、1座違いの移植は当県では初めてだという事実に気がついていたようでした。
私もこの時から少しずつ1座違いの骨髄移植は完全に一致している場合よりもリスクを伴ったものであるらしい事を 理解し始めました。


 「それじゃ、いよいよ退院だねぇ。」 ─── 回診に来たDr.に言われました。
( 退院? …… 私が退院できるの?! )
その言葉はあまりにも思いがけないものでした。
いつまで入院していたらいいのかとDr.に訊ねた日以来、「退院」という言葉は私の中ではすっかり忘れてしまっていた言葉になっていました。
私には起こりえない事だという認識で過ごしていましたので、嬉しいという気持ちよりも意外性の方が強かったのです。
けれども、この頃、血小板の数値が少しづつですが減少傾向にありました。不安な要素はあったのですが、だからといって、このまま入院していても やらなければならない治療があるわけではないので、とりあえずは退院ということになりました。

 私が退院できるという吉報を聞いた同室の一人が、「今だから言うけど、去年の秋、nagiさんがこの部屋に来た時、私の娘はnagiさんの 様子を見ていて── 「あの人はそのうち死んでしまうんじゃないかなぁ。」── って言っていたんだよ。あの時から比べたら、本当に 元気になった。良かったね。先生のお陰だね。先生に感謝しなきゃいけないよ。」
そう言って、私の退院を心から喜んでくれました。


home * essay * top

退院後


 退院後は、血液内科へ週1回、歯科口腔外科へ週2回、外来通院をしていました。
4月に移植する事が決まれば、3月末から4月の始めには移植を行う病院へ入院する予定になっていましたが、 未だ、ドナーの方の返事をいただけてはいない様でした。5月は移植を行う病院の方で他の移植患者さんの予定が入っているので、 もしも、4月に出来ない時には7月に延期ということでした。ただし、治療もせずに間を空ける事は出来ないので、 移植が7月になった場合は、4月に入院して化学治療を行わなければなりませんでした。

退院して11日目── 白血球3300、ヘモグロビン11.0、血小板115000。
     18日目── 白血球2600、ヘモグロビン11.3、血小板 92000。
     25日目── 白血球2900、ヘモグロビン11.0、血小板 74000。
検査の度毎に減少していく血小板の数値にとうとう 「入院して治療」 と言われてしまいました。
3月1日に退院して喜んでいたのに、その月の30日には、また病院へ戻る事になりました。

 入院して最初に受けた検査はいつもの様にマルクでした。
夕方、その検査結果を報告に来たDr.は、
「結論から先に言います。…… 再発ではありませんでした。」 
と、まるで言葉を送り届けるかの様に慎重な口調で私に告げました。
検査結果を報告してくれたこれまでの時とは違って、シリアスな表情でしたし、何よりも──「再発ではありませんでした。」── と言う報告の言葉は初めてでした。
「再発ではありませんでしたって…… 先生は再発してるかも知れないって、思ってたってこと?!」
私が再発という事に関して、一切不安を感じていなかったことを会話の中から感じとったDr.は、 「えっ?! そ、そりゃー、再発してないかどうか、一応考えるよ。」 と少したじろいだ様子で 慌てて言葉を繋いだといった印象でした。
血小板が徐々に減少していることで、──再発しているのでは?── というDr.の心配を余所に私の中では端から不安など感じては いませんでした。こういうところは性分が暢気なことが幸いしているようでした。
 次に受けたのは大腸の内視鏡検査でした。一年近く治療の前後に受けてきたので検査をして下さる先生は私の事情をよく知っていました。 症状が治癒している事が判ると、検査終了直後、私の背中をぽんぽんと叩いて、「良かったね。治ってたよ。」  と優しく声を掛けて下さいました。
これまでは立て続けに化学治療を行って来ていたので、今回のように次の治療までに1〜2ヶ月、間が空いた事は初めてでした。 治癒している事を聞いたDr.は、「やっぱり、間が空いたのが良かったのかなぁ。」 と少しだけ考え込む様子で言いました。
治っていると言われたことで、移植までに大腸をどうするかという心配もなくなりました。

 治療はIVHを入れて6日間の予定で行われました。
これまでのような腹痛が起こる事もなく、38度程度の発熱があっただけでした。1週間無菌管理になり、輸血は、血小板が4回と 赤血球が1回でした。
 治療が一段落するとIVHを外し、ルンバール(腰髄穿刺・髄注)をすることになりました。
昨年8月に受ける予定だったのですが、再発している事が判明したので中止になっていたのです。
脊髄腔から髄液を取り出し、その分の量の薬をそこから注入する検査・治療です。取り出したものから脳や脊髄に白血病細胞が ないかどうかを調べるのだそうです。そこへの薬の投与は他の方法では出来ないということでした。
検査結果は、悪い細胞は見られないのでルンバールの治療はそれ以上する必要はないと言われ、一安心しました。
とにかく、麻酔の注射が必要な検査は苦手で、いつもDr.が呆れるほど子ども並みに痛がっていました。

 或る日、「移植の日にちが決まったよ。」 と詳しい日程を教えてくれました。
ようやく、その日が決まったようでした。
「移植をした人は皆、相当きつい思いをしているみたいなんだけど、大丈夫かなぁ?」
移植をしなければならないと決まった日から私の心の中にある不安な思いをDr.に訊いてみました。
『それは、大した化学治療をしてない人なんじゃないのかなぁ? たぶん、nagiさんの場合は、「あれ?」と思うと思うよ。 「あれ、こんなものかなぁ。」って感じだと思うよ。』
「え〜っ!? 本当かなぁ?」─── 移植の時の副作用が「あれ、こんなものかなぁ?」 と思えるなんて、そんな事が果たして 本当だろうかと半信半疑でした。そうであって欲しいと望みながらも、そんなはずはないだろうという気持ちでした。
移植がうまく行くかどうか不安な気持ちを伝えると 
「nagiさんは、運がいいから、きっとうまくいくよ。」
「最初の段階でこの人は運が強いなぁ〜と思わせる人っていうのは、色々ありながらも、大体最後までうまくいくものなんだよ。 nagiさんの場合も運が強いからきっとうまく行くよ。」
「私、運が強いかなぁ? …… こんな病気になったのに?」 
「病気になった事は、そうだけど …… でも、今こうして此処にいるっていうことは運が強いってことだよ。」
─── 「最初の治療の時、nagiさん、今晩逝ってしまうのかなぁ〜?そんな感じだったのよ。」 と、 ナースに言われた事を思い出しました。───
「最初の時にあれほどの状態になりながら……その後も何度も危ない状態になりながらも、今こうして此処にいるのは、間違いなく 運が強い証拠だよ。」
─── 長年、沢山の患者さんと接して来ている先生方には、私たちには解らない患者観というものがあるように思えます。 血液内科のように死に直面する病気が多い場合、特にそうなのかも知れません。─── 

 今回は移植前ということで弱い治療を行った事もあってか、副作用もほとんどない様な状態で退院する事ができました。 約1ヶ月半の入院生活でした。


home * essay * top

その後、移植のために転院するまで

 骨髄移植を受ける為に入院するまでは、週に1回外来通院をしていました。
2度目の診察の時のことでした。血液検査の結果は、白血球3千5百、血小板16万5千……とそれまでの私にとっては 良好とも言える結果でした。
診察室の椅子に座って、検査結果のデーター表を見ていた私は、思わず不満を漏らしてしまいました。
「こんなに検査結果が良かったら…… 私、困るんだけど。」
結果が良いのが困るという私の言葉にDr.は少し驚いたようでした。
「え〜!? 結果がいいのは良い事じゃない。どうして困るん?」
「だって……悪いと思っているからこそ、移植を受けようとしているのに、こんなに結果が良かったら、本当に移植が必要なのかなって 思うじゃない。」
「え〜! まだ、迷ってたん。」
「そりゃ、迷うよ。」
できれば、移植なんて受けたくなんかありませんでした。受けずに済むのならば、どんなにいいだろうと思わない日はありませんでした。
Dr.は、私の中に迷う気持ちがある事を知ると静かに話し始めました。
「今は、結果がいいかも知れないけれど、それもいつまでも続くわけではない。君の場合は、ずっと治療を続けてきたから 骨髄自体は弱っている。それに今まで考えられる薬は全て使って来たから、そのうち効く薬もなくなる。そうなった時の事を考えると 結局、移植するしかないんだよ。」
「元気がいいって事はいい事なんだよ。…………昔、若い男性で身内の分で移植をしたけどうまくいかなくて可哀そうな事をしたと思っている……。 だから、体力のある時に移植が出来る事はいい事なんだよ。」
─── 充分な説明だと思いました。
私より9ヶ月ほど先に移植を受けた人がいて、彼は私にいつも言っていたのです。
「退院して家に帰ったら、美味しいものを沢山食べて、とにかく体力を付けなさい。」 と。
体力があるかないかは、移植に打ち勝つ為の大切なポイントの一つなのかも知れないと思いました。

 骨髄移植が出来る事は幸運なことである事はわかってはいても、結果がどうなるかを考えると不安は拭い去れませんでした。
ましてや、私の場合は非血縁者による1座ミスマッチなのです。GVHD(移植片対宿主病)がどうでるかを考えると不安で不安で仕方が ありませんでした。
骨髄バンクから配布されてきた資料には、私のタイプの白血病で再発後に移植を行った場合の5年生存率は30%と 書かれていました。30%の人が助かって、70%の人は助からない。
( たったの30%! こんなに低いの! )
本当に驚きました。そして数字を見ていて思いました。
(………… でも、その30%に入れば問題ないわけよね。…… 70%に目を向けなければいいんだもの。 私はその30%の中に絶対入る!  悪い方の数字は気にしない。)
─── 悪いことは考えない。決して悲観しない。───自分に都合よく楽観できる性分だったことに救われました。
 その頃、インターネットの血液の病気の人たちのサイトを見て、随分と勇気をもらいました。
皆がお互いに励まし合っている様子に私まで励まされているような気持ちになっていました。
(くよくよ思い悩んだって仕方ない。やるしかないんだから。皆だって頑張ってるんだから。)
そう自分に言い聞かせていました。
 
  退院して23日目の事でした。骨髄移植を担当する医大から入院連絡の電話がありました。ベッドを確保する為に今週中には、 入院して欲しいということでした。移植をするその日が間近に迫って来ているのだということをひしひしと感じました。

 そして、入院当日、医大への申し送りの資料を受け取る為に病院へ立ち寄る事になっていました。事務の受付でそれを受け取るだけかと思っていたところ、 診察室へ通されDr.と対面する事になりました。
  「申し送りに 異常にマルクを痛がるのでびっくりしない様にって書いといたからね。」
─── ( え?!……異常に痛がって危ないので出来れば研修生にはさせないようにって書いて欲しかったのに……!)─── 
「何か分からないことがあったらいつでも電話して来ていいよ〜。但し、10時から5時までね。」
─── ( ん? 10時から5時まで!…… なんか昔映画のタイトルにあったような……。この頃のお医者様はまるでサラリーマン化 しているみたいだなぁ。)───
 心の中でそんな事を思いながら、Dr.と、とりとめのない雑談をしていました。
「此処へはいつ頃戻って来られそうですか?」 と訊ねると、 「君の場合は一座違いの移植だから、もしかしたら年内に此処へ戻ってくるのは無理かも知れないね。」 ということでした。
また長い入院になりそうでした。
「必ず此処へ戻って来てもらわないと困るからね。」 Dr.にそう言われ、必ず戻って来ることを約束しました。
 資料を受け取った後、受付を終え、玄関へ向かおうとしていると、わざわざDr.が待合室まで出て来てくれました。
これまでのDr.は、検査にしろ何にしろ、事が終わればさっと次のことへと踵を返すようにしていなくなっていたのに……。
この時は、待合室にいる患者さんたちの中に紛れて立ち、その場に佇んだまま病院の玄関を出て行こうとしている私の後姿をずっと 見送ってくれていました。
私はガラスのドアの前で後ろを振り返りながら、いつもと違うDr.の様子に ───
( もしかしたら…… これが私の最後の姿なのかも知れない…………私が再び此処へ戻ってくることはないのかも知れない……… そう思っているのでは……。)
もしかしたら……これから私が受けようとしている移植は難しいのかもしれない。─── ふっとそんな思いが過りました。

 


home * essay * top