白血病



風邪をひいて……

 2002年のことでした。
3月に入って、風邪をひいてしまいました。
早く治そうと思い、家にある風邪薬を飲むのですが、一向に良くなりませんでした。 それどころか病状は益々悪くなるばかりでした。
職場の人に迷惑をかけないようにする為にも、自分の症状に合った薬を処方してもらった方が良いだろうと考え、 病院へ行く事にしました。
 最初に掛かった病院のDr.は、診察の時に私の首のリンパに触れて、こう言いました。
「あれ、リンパが腫れてるなぁ。…………痛い?」
さらに首から肩にかけて触れ、 「異常にリンパが腫れてるなぁ。」
……そう言いながらも 風邪の薬を5日間処方しただけでした。
処方された薬を服用しても症状が良くなる気配はみられず、そんな私の様子を見ていた夫が、「大きい病院じゃなきゃ駄目だ。」  と別の病院に掛かる事を勧めました。
5日分の薬を服用し終わり、再度同じ病院へ薬をもらいに行くべきか、夫の勧める病院へ変わるべきかを迷いましたが、 私が出かける寸前に 「……病院へは行ったか?」 と夫から電話が掛かってきた事で、 思い切って変える事に決めました。
 次に掛かった病院では、内科は先ず血液検査のための採血をするようでした。
検査結果が出る前にDr.の診察を受けました。
風邪をひいて、いくら薬を飲んでも治らないと病状を説明すると、Dr.は、私の首の両側に手を置きました。そして、 最初に掛かった病院のDr.とまるで同じ事を言いました。
「あれ、リンパが腫れてるなぁ。痛い? ……異常にリンパが腫れてるなぁ。」 と。
私の病状を診て全く同じ反応を示しながらも その対応は違ったものでした。
予め、私が受付の時に書いていた病状報告書に素早く目を通し、体に発疹がある事を確認すると 待合室で待つように指示しました。その間、Dr.は検査室へ出向き 直接私の血液を診て 異常を確認すると 直様専門の病院へ入院できる手筈を整えてくれていたのでした。
再度、診察室へ呼ばれ、入院の必要がある事を告げられました。
家族の人に説明をしたいとのことで 夫に電話をいれ、病院に来てもらうことにしました。
夫が病院に到着して 二人して説明を聞いたのですが、
「何の病気ですか?」 と訊ねる夫に Dr.は 「血液の病気です。」 と答えるだけで、明確な病名は言いませんでした。
「珍しい病気なんでしょうか?」 とさらに訊ねると 「そうですね……。10万人に 二人か三人でしょうか……。」
「本当なら今日にでも入院してもらいたいところなんですが、どうしても今日はベッドが空かない、 明日なら何とかできると言うので明日になったんです。明日は必ず病院へ行って下さいよ!」
念を押すように強調して言われました。

 ( 血液の病気…………珍しい病気…………) Dr.の言葉を繰り返し反芻しながら、( もしかしたら、白血病? ) と疑いつつも、  その病名があまりにも重過ぎるため、言葉に出すことができないままに翌朝を迎えました。
 紹介された病院へは夫の運転で向かいました。車の中では二人とも黙ったままで 一言も言葉にする事が出来ませんでした。
言いたくても言えない、重い言葉が互いの胸の内に閊えていました。
早朝の冷たい空気が、車内の静けさとともに 心に染み入るように感じました………ひとり胸のうちで不安な言葉がよぎります。
( もしかしたら、私は白血病なんだろうか? )
もう少しで病院に着くという所にさしかかり、思い切って昨日から言えずにいた言葉を口に出してみました。
「パパ、もしかしたら私は……白血病なのかなぁ?」
夫は落ち着いた声で静かに答えました。
「うん。」
二人とも同じ事を思っていたのでした。
ただ、一旦その言葉を口にしてしまうと、それが本当のことになってしまいそうで怖くて言えずにいたのです。

 この時の夫と私は、これから始まろうとしている入院が、この先一年以上も続くことになろうとは、 想像すらしていませんでした。


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入院初日……

 入院初日の午後、骨髄検査のための骨髄穿刺(マルク)を受けました。
この検査の痛みは、あまりにも衝撃的過ぎて 今でも「マルク」という言葉を聞くと私の中で ピーンと張り詰めた緊張感を感じます。
 検査結果が出たのは、その日の夕方6時頃でした。
Dr.の説明を聞くために 先ず家族が呼ばれました。
間もなくして、夫が、「先生が、お前にも話があるって言ってる。」 と 私を呼びにやって来ました。
夫の後について行くとナース・ステーションの奥の片隅にDr.と実家の父が座って待っていました。 促されるままに其処にある椅子に腰掛け、正面に座っているDr.の顔を見ると真面目な顔付で こちらを見据えたようにしています。そして、私が落ち着いたのを見計らうと 私に向かってきっぱりと言いました。
「病名を言います。急性骨髄性白血病です。悪性の腫瘍です!!」
病名を告げられた私が咄嗟に思ったことは……
(白血病って、あの美人薄命の白血病!)
(私が……?!)
まるでドラマか何かのワンシーンでもあるかのように感じました。
こんな事が私の身の上に起きるなんて……。

 Dr.の説明は、紹介してくれたDr.はこの病気が専門であり、最も信頼のおけるDr.であったこと。 そのお陰で、早い段階で治療が始められること。このことは、幸運としか言いようがないこと。 後、1ヶ月もすれば、病状が進み、倒れて救急車で運ばれることになり、 そうなった時には、手遅れで、あと1,2ヶ月の命でしかなかったであろうと思われること。
是非、この幸運を生かして治療をしていきましょう、ということでした。
さらに治療内容の説明が続きました。…………化学治療のこと。治療方法とその副作用について ……髪が抜けること、吐き気など。
 それまで落ち着いて動揺することなく、説明を聞いたのですが、 治療の度毎に今日行った骨髄の検査(マルク)をしていくということを聞いた途端に 私の目から 涙がどっと溢れ出るようにして流れ始めました。
(今日のあの検査をこれから何度もやっていかなくちゃならないなんて耐えられない。)
隣に座っていた母がそっと私にハンカチを渡してくれました。
その場にいた誰もが、私が病名を知ってショックを受けて泣いていると思っていたようでしたが、 その時の私には、病名を告知されたこと以上に、「マルクをやっていく……」 ということの方が、 受けたショックは大きかったのです。
 Dr.は、入院治療に6ヶ月かかることを説明し、
「とにかく私に時間を下さい。時間さえくれたら病気を治せます。」
そう明確に断言しました。
何度も強調して繰り返すDr.のその言葉に
(あれ?、なんか変!……私、死なないみたい。)

 白血病は、不治の病だというイメージを抱いていた私にとって、「……治る。」 というDr.の言葉は意外なものでした。
病名を知った夫は、ショックを受けながらも そこに唯一の救いを見出したようで、 「治るのであれば、時間はいくら掛かっても構いません。よろしくお願いします。」 と頭を下げていました。

 半年の入院…………先が長くて気が遠くなるような感慨を覚えました。


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化学治療開始……

 入院二日目。
化学治療が始まる前にIVH(中心静脈カテーテル)を鎖骨の下辺りの太い静脈に入れました。
腕の血管に針を刺して点滴をした場合、薬が強すぎる為に血管がすぐにボロボロになってしまうのだそうです。
点滴は、一定量を同じ間隔で落とせるように薬を管理する輸液ポンプを使って行われました。
 点滴開始後二日目で早くも39度近い熱が出ました。
「もう、熱が出たって!」 と診察にやって来たDr.は、困ったような表情をしていました。
その翌日も発熱がありました。
「う〜ん、もう熱が出た……。」 とその日の診察でも昨日と同じようにDr.は腕組みをしたまま考え込んでいます。
何がそんなに問題なのか。病気で入院しているのだから 熱ぐらい出ても不思議はないのではないか。 そう思う私は、Dr.の様子を訝しく感じ、思い切って訊ねてみました。
「あの〜、熱が出たら何か不味いんでしょうか?」
「いや、不味いというわけじゃない。治療をしていたら熱が出る事はある。でも、それはもっと 後になってからの事で、白血球が少なくなってきたら熱は出るんだけども、今のこの段階でもう熱が出たとなると nagiさん自身がこれから辛い思いをする事になるから……。」
初めて経験する化学治療でした。それが実際どういうものであるのか、これから一体、私の身に何が起きるのか、 全く想像することすら出来ずにいました。
Dr.の考え込んでいる様子と話の内容から、何か釈然としないものを感じていました。
(私自身が辛い思いをする事になるって、どういう事なんだろう?)


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副作用

 高熱は、相変わらず続いていました。
熱が出ては解熱剤を服用し、その薬が切れた頃になると、また熱が出るということを繰り返す毎日でした。
激しい腹痛と下痢にも悩まされました。
40度前後の高熱、激しい腹痛とそれに伴う下血、下痢。これらの症状が、まるでワンセットのようにして その後の化学治療の度に副作用として現れることになりました。
 日にちが経つにつれ、症状は益々悪くなっていきました。
食事時間になると高熱が出て食事をするどころではありませんでした。毎回食事を断る私に看護師さんは見かねて、 「食事、止めようか? 止める事も出来るから。」 と言ってくれました。40度を越す熱を出している私に向かって、 「少しでも食べた方がいいんじゃないの。」 とは、さすがに言えなかったようでした。
週に一度行われる病棟回診では、リーダーのDr.が、他には何も掛ける言葉がないというように、 「今が一番辛い時だからね。……頑張ってね。」 とそれだけ言うと他のDr.方と頷き合うようにして 部屋を出て行く光景が何度か繰り返されました。
この頃には、鏡を見る余裕すらない状態でしたので自分では判りませんでしたが、どうやら 黄疸症状が現れていたようでした。
かなり深刻な状態になってきていたのか、利尿剤を使うことになりました。私が起き上がれる状態ではないと判断したDr.は、 薬の説明をしたうえで、「……自分でトイレに行けないだろうから、尿道に管を入れるよ。」 と言いました。
そんなことは絶対に受け入れられないと思った私は、ベッドのすぐ脇にあるポータブルトイレを頭に描き、すぐ脇にあるのだからと、 「大丈夫(自分で出来る)!」 と答えました。
一言答えるのが精一杯の状態でした。
「大丈夫ったって……出来るわけないだろ。」
呆れて、そう言うDr.の言葉に 「頑張る……。」 と食い下がらずにあくまでも 強情を張っていると、「頑張るったって………よし、分った。じゃー、こうしよう。 三日間だけ……三日間だけ、誰か家の人が付いていてくれるならそれでもいい。」
「いいね。じゃーこれから、ご主人に電話してくるからね。」 
そう言うと一旦部屋を出て行きました。
(三日間か、パパそんなに仕事休めるかなぁ〜。それにしても、なぜ三日間なんだろう?)


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祈り……

 電話を受けて 慌てふためいた様子で 夫が病室に入ってきました。 急いた気持ちのままに、「先生、お世話になります。」 と部屋で待機していたDr.に、早口で挨拶をすると、 私の傍に駆け寄り、「……ちゃん、どうした? そんなに嫌なのか?」 と一気に話しかけてきました。
私に寄り添うようにして話しかけている夫の姿に、周りの人は気を利かして 部屋から出て行きました。
「嫌だって言う気持ちは分かるけど、我慢して先生の言う通りにして治療をしよう。」
そう懇願する夫に逆らうことなんて出来ませんでした。
病気になって入院しているという事だけでも、申し訳なくて仕方がなかったのです。これ以上、夫を困らせることなど 出来る筈がありませんでした。

 処置が終わって、「どうなんでしょう? 心配で夜も眠れないんですが……。」
「いやー、私も眠れないんですよ。」
部屋を出て行く夫とDr.の会話が聞こえてきました。その後、二人の気配だけは、廊下に感じるものの、 話す声はドアに閉ざされて聞こえなくなりました。
意識はぼんやりと薄れ、周りの景色が遠くなっていくようでした。
気が付いた時には、暗い部屋の中でベッドの傍らの椅子に腰掛け、うな垂れている夫が 目に入りました。
(パパ、まだいたんだ。)……夫の姿を確認すると、またス〜ッと意識が薄れていきました。
再び気が付いた時には、もう、夫の姿はそこにはありませんでした。
(パパ、帰ったんだ。)……その間、どれだけの時間が流れていたのか、その時の私には時間の感覚すら 、わからなくなっていました。

 意識が少しずつ目覚め始め、病棟の廊下で人が行き交っている気配がドア越しに伝わってきました。
一日が始まったのだと気づくと同時に、鼻に何か違和感を感じました。
鼻に一体何があるのだろうと不思議に思って 恐る恐る手をやってみると、先が二股になったチューブが鼻の穴に 入れられていました。
いつ入れられたのか、全く記憶にありませんでした。
記憶を呼び起こそうと、昨夜の出来事を覚えている限り 順を追って回想してみました。
「ちょっと痛いよ。」 と言いながらDr.が、私の手をつかみ手首の内側の動脈から採血したこと。 「今から、白血球を増やす注射をするからね。」 と言って、上腕部に注射をしたこと。そして……利尿剤を使うことになって、 夫が来て…………どうしても、その後の記憶は思い出すことが出来ませんでした。
おそらく動脈から採血した検査結果で、酸素量が低くなっていたことが判って酸素を吸入する必要があったのでしょう。

 その日、夫は中学生の娘を伴って病室にやって来ました。
ドアを背にして二人並んで立ち、ベッドの上で寝たきりの状態になっている私を見ていました。
「だめじゃないかっ!」
「娘の花嫁姿を見なくてどうするんだっ!」
「頑張らんかっ!」
夫が私に向かって心の底から振り絞るような悲痛な声で叫びました。目を見ると明らかに泣いているのがわかりました。 娘は、夫の隣で呆然とした様子で立ちすくみ、戸惑った表情をしてじっと私を見ていました。
夫の涙を見て、私の目にも涙が溢れてきました。 ただ、この時の私は、なぜ夫が泣いているのか、その理由がわかりませんでした。
(パパが泣いてる……どうして泣いてるの? 花嫁姿を見なくてどうするのかって、どういうこと!  ……私、もしかしたら、今、危ないのかなぁ?)
抑えようとしても流れてくる涙に喉の奥が締め付けられたようになって言葉を発する事が出来ずに、 夫が何かを言う度に、頷くことしかできませんでした。

  「腎臓も肝臓も機能しなくなってきています。今、使っている薬はあと三日ぐらいで利かなくなります。その間に 白血球が増えてくれればいいんですが……たとえ、増えたとしても、良い白血球が増えるのか、悪い白血球が増えるのか、 それは、私にもわかりません。あとは、本人の運でしかありません。この三日が山です。覚悟をしていて下さい。」
昨夜、病棟の廊下で、夫はDr.から、私の状態について説明を受けていたのでした。


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奇跡……

 小さなクレーン車の様な形をした器械を押しながら男の人が部屋に入ってきました。
レントゲン技師でした。
肺炎を併発したので、その日から毎朝、動けなくなった私の元へ胸部のレントゲンを撮影するために 出向いて来ることになったのでした。
胸部を撮る為には背中に1.5〜2cmぐらいの厚さの板を一枚敷くのですが、撮影初日は、 その板をベッドのマットと背中の間に入れるのに どんなに力を振り絞って背中を持ち上げようとしても 体は全く反応しませんでした。
技師が慌てて、「いいですよ。こちらでしますから。そのままでいてください。」 と 自分で何とかしようとしている私を止めました。
労わるというより、哀れむというような技師の表情が印象的でした。
板一枚入れる隙間を作ることさえ出来なくなっている衰弱しきった自分の体が哀れでした。
この板の件は、その後、私の体が回復していくのを実感するのにいい目安になりました。
日にちが経つに連れて 体が少しずつマットから持ち上がるのが分かったからです。
数日後には、はっきりとした隙間が出来るほどに体を持ち上げることが出来るようになりました。
そして、その日を境にして私の部屋にレントゲン技師がやってくることはありませんでした。
どうやら峠は越したようでした。

 ドアが開く音で誰かが部屋に入って来た気配を感じました。
意識が目覚め、ゆっくりと目を開けると診察に来たDr.の姿が見えました。
「あー、先生……」 力なくそう言うと、そのまま また意識がふぅ〜っと遠のいて行きました。
後に、この時の事をナースに話すと、「そうよ。あの時は、私が検温に行って、こうして普通に話をしていても話している途中で スゥ〜ッと眠ってしまっていたのよ。よっぽど体が疲れているんだなぁ〜って思っていたのよ。」 と言われました。
その時の記憶はありませんでしたが、衰弱しきって失った体力を取り戻すのに数日間はこうして殆んど眠っていた様な状態 だったのかも知れません。

  「今まで医者をやってきて、これほど副作用が酷くなったのは、nagiさんが初めてだよ。」
状態が落ち着いた頃に、Dr.が私に言いました。
もう無理かも知れないと思っていたようでした。
あと二日、白血球が増えるのが遅かったら完全に駄目だったそうです。
肝臓も腎臓も悪くなり、下血もし、その上で肺炎を起こしていたので、どうすることも出来ない状態だったそうです。

 容態が落ち着いたところで、次に問題となったのは、腹痛の事でした。
高校生の時に慢性虫垂炎だと医者に言われ、そのままになっていました。
腹痛の原因がそれだとすると、化学治療に入ってから手術の必要が生じた時には、命にかかわってきます。現実に、 それで命を落とした人もいるそうです。そうかと言って、次の治療までの間隔を空け過ぎると、その間にまた悪い細胞が 増える可能性が出てきます。悪ければ、即手術……という事になりました。
 ところが、外科のDr.に診察をしてもらうと、悪かった痕はみられるが、副作用の治療のために使った抗生剤で炎症が抑えられている ということでした。
抑えられているとは言うものの、現実に腹痛、下痢は相変わらず続いていました。
CT写真の腸壁全体にみられる白い部分の厚みが気になるということで、大腸の内視鏡検査をすることになりました。
その結果は、腸の中は潰瘍だらけで、採取した組織からサイトメガロウイルスが検出されました。
Dr.は、私の元へ来て、「腸の中が傷だらけだったから、一週間絶食をして、もう一度大腸の検査をしてある程度治っていたら、 次の治療に入るからね。あんまり、間を空けるのはよくないからね。」 と説明しました。
(腸の中が傷だらけ?…………傷だらけって、どんな感じになっているんだろう?)
今一つピンと来ませんでした。
午後の検温の時に、その日担当のナースが 「nagiさん 腸の中が潰瘍だらけだったんですってね。」 とさばさばした声で言いました。
(傷だらけ……潰瘍だらけ……傷って、潰瘍の事だったんだ。)
Dr.は、患者の心理的負担を考慮して、敢えて潰瘍という言葉を使わずに傷という言葉に置き換えて 説明していたのだと思いました。
サイトメガロウイルスについては、─── 二十歳前後で風邪をひいた時に誰でもこのウイルスに感染して皆、 体の中に持っているのだけど、普通は腎臓にいて出てくることはない。免疫力を無くした末期のエイズ患者が 肺炎にかかった時などに腎臓から出てきて、それが肺や脳に現れた時にはどうする事も出来ない ───  と説明されました。
衰弱しきっていた私の体の免疫力が衰えていたために、ウイルスが 腎臓から出てきて、もう少しで肺に入るという手前で白血球が増えたので、行き場を失い腸の中へ逃げ込んだのだろう…… ということでした。
肺に入ってしまったら確実に助からなかったでしょう。
あと二日、白血球が増えるのが遅かったら確実に駄目だったというのは、このことからも推測できます。

 副作用が予想以上に酷かった為に、2回目以降の化学治療は慎重に考えて、始めから無菌室で行う事になりました。
私の病室の斜め前にある部屋がその無菌室と呼ばれている部屋でした。
他の部屋と違って、白い重たいドアで閉ざされていて、そのドアの前には、なぜかいつも脱いだ靴が置かれていました。
一体、あの部屋の中はどうなっているのだろう。
中が畳敷きだから靴を脱ぐのだろうか?…… そこは、私にとって興味津々な場所でした。
その部屋に移動することになり、中の様子が見られるのだと思うとわくわくする気持ちを抑えられず、 期待に胸を躍らせながら、その部屋に足を踏み入れました。
患者が嫌がる無菌室をあんなに心躍らせながら入室したのは、きっと後にも先にも私ぐらいのものだったのではないかと 思います。

  激しい腹痛が始まると絶食に入り、化学治療が落ち着くと大腸の内視鏡検査をし、その治療をした上で 良くなっている事を確認するために、もう一度内視鏡検査を受けた後に次の化学治療に入る、というのが大体の私の治療パターンでした。

 相変わらず、腹痛、下痢、40度前後の高熱、下血という副作用にあいながらも、何とか順調に来ていたのですが、 3回目の化学治療が終えたところで再発していることが判りました。
 治療が振り出しに戻ってしまいました。


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